講座「写真家が一番カッコよかった時代 -1960~70年代の日本写真史を紐解く-」を受けてみて

少し前にも書いたように、「写真家が一番カッコよかった時代 -1960~70年代の日本写真史を紐解く-」を受講した。これまで日本写真史について、このように教わったことがなくて、全て本と展覧会からの知識でしかなかった。たった4回だけだったことが残念に思えるくらいに、自分としては満足な内容だった。60〜70年代という、優れた写真家を多く輩出した時代でもあり、同時代についての書籍も数多くあるのだけれども、飯沢氏による写真集を教材とした話しは期待以上のものだった。作品の裏側にある、当時の人物関係の詳しい説明も興味深く、作品がどのように出来上がっていっていくのかを知る事ができた。
写真史についてついて学ぶことが出来たので、次回は美学(写真)について学んでいきたい。

おまけ
昨年観た展示の1つに会場αMがある。「αMプロジェクト2017 鏡と穴-彫刻と写真の界面」ここでのギャラリートークが動画YouTubeで誰でも観られるようになっている。

galleryalphaM 鏡と穴 で検索してもらえると見つけ出せます。

まける写真

昨日友達と入ったカフェで、いつものようにお互いの近況について話しをしていた。頼んだコーヒーを一口飲んだ後、去年見た展示についてだったり、最近見た写真集についてなど、色々な角度から最近の美術について話しあった。そんななか、ぼくが昔しに「写真は絵画などと比べて、とても弱いメディアである」ということを力説したというこを振り返るような話題が、どこからともなく始まった。僕は昔に写真と額についてリサーチしたことがある。その結果は写真は物質的な観点から判断してもやはり弱い。東日本大震災以後に現れた、数多くのドキュメンタリー作品は、そのテーマの大きさ故に強く映るがが、実は鎧に守られているのと同じことだと思う。そのようなことを言って、昨日は終わった。

一夜明けて今日、お昼ご飯を作りながら突然頭に思い浮かんだ疑問は、近年儚い画面を作り上げられている写真作家は誰か?前日の写真は弱い。勿論これとは観点が違うのだが、ここへたどり着くヒントには十分だった。では一口に”儚さ”と言っても、その表現は様々あるはず。そこで思い出した本がある。「負ける建築」隈研吾著。隈さんの本は、まだ2〜3冊ほどしか読んでいないが、とても読みやすいと記憶している。建築家の友人からもプッシュされているこの本、やっぱり読んでみたくなった。強くなきゃ意味が無い。常に強いものが評価されたバブル期。だれもが浮かれて、たまには大見得を切らなくては生きていけなかった時代。そのあ自分の弱さを認め、人々に認められる作品を作り続ける道を見つけ出せたのが著者なのじゃないだろうか。僕自身、これまで強いものを写したいと思ったことは無いのだけれど、(しかも写真の場合はその現場に行かないといけないという制約がある)弱いものを撮り続ける理由にまだ幾つものの迷いをもっている。

写真は強いのか、弱いのかは人によって考えは違いそうだ。写真というメディアの特性について長い間考えてきて、それを作品化してきたけれど、今年は強さと弱さについても掘り下げてみたいと思う。 むらいじゅん

セルフポートレート

Self Portrait 06

昨年の後半から、Facebookにセルフポートレートを継続的にアップロードしている。今のところ合計22枚、今後も継続していく予定。始めた理由は、これまで自分のやっていなかった、経験値の少ないことは何だろうと考えて見つけ出したのがセルフポートレートだった。人物は、写真にとっても、全てに表現にとって永遠のテーマ。実際に自分で自分を撮影してみると、その過程でこれまでには考えもしなかった問題を突きつけられるので、やりがいはとても大きい。絵画では自画像はかなり当たり前のことで、これまでにも会場で見る機会は数多くあった。しかし、写真で”セルフポートレート”は、書籍の著者像と同じ位、その人物の容姿を確認するための撮影しかされない。実際に自分で自分を撮影して、Facebookにアップすることの回数を重ねてみると、自分のなかに新しい観察力が成長してきていることに気がついてきた。発見!と驚いたことは、実はそれまでの自分には見抜ける力が不足していただけなのだと思う。セルフポートレートはフレッシュな気持ちが続くかぎりは、継続して、その中で知らないにぶつかったらそのたびに乗り越えていくつもり。