コンセプト

 

 

写真の歴史は1839年にルイジャック・マンデ・ダゲールによって発明されたダゲレオタイプによって始まりました。以来、写真は絵画と共に表現手段として支持され続けています。この2つの表現方法の間には多くの共通と異なる部分があり、主観と客観からの両者の違いは、私にとって制作する上でとても興味深い題材です。風景を例にした場合、風景画とは画家の目で見られた主観的な風景ですが、それに対し風景写真とはカメラによる客観性と撮影者の主観性、2つの要素が折り重なって出来上がっています。私にとっての写真とは自己の体験と知識を再具象化したものです。印画紙上に強くて大きな現実と微細な観念とが並んだ光から生まれた像です。私の研究テーマは、『現実と虚構との狭間』です。印画紙上にカメラが記録した事物を再現するのと同時に、私が感知した感覚(体験と知識)を表現します。

 

一枚の写真の中には写真を透かして見える真実と、写真の中に描く私の解釈の2つが存在します。カメラはレンズの前に実在する事物を客観的に写し、撮影者はカメラを自分の目や手の延長のように操作することで個性を描き出します。ファインダーを通して見る全ての事物は、撮影者の目を通らず光となって構成無比に直接フィルムに写しとられ、その後全てのディテールは等価に再現される。つまり、写真は常に客観的記録としての現実を含んでいます。特に事物の存在していた時間と空間は、撮影者が操作や主観感によって変えることは出来ないので真実として画面に刻まれます。一方、写真の中に描く撮影者の的解釈は、撮影、現像、プリントを終えて写真となった時に現れます。意図的な撮影アングルで被写体の形のや見え方を変えたり、現像・プリントで色味を変化させたりもできます。最終的には画面の像の意味までも変えることも可能です。

 

私は自分と実在する被写体とを繫いでいる目には見えない関係性を探し、それを外部化するための作業(撮影・現像・プリント)をします。私はある種の雰囲気を持つ空間の中に進入し、その時に自分の中に芽生えた感情を感知し撮影を始めます。この空間と自分とを繫いでいる感情、その時その場にあった光、音、質感など、私の感覚を刺激したもののことを「浮遊する雰囲気」と呼んでいます。私にとって透き通る空気は層になり、光は未来へと向かい、暗闇は奥へと続く道です。「浮遊する雰囲気」はとても微細ですが、その時私の周りを取り囲んでいる外界と同等の強さを感じさせます。撮影中は被写体のことではなく、自身のつぶやきや、独り言を写真に変換することを考えています。この空間と自分との結びつき「浮遊する雰囲気」をフィルムに封じ込めるために、その時居合わせた外界(空間)の場面を引用するためにシャッターを繰り返し切り続けます。それは何度も適切な言葉を探して紙に書き続けるのと同じ作業です。

 

私にとって写真を撮ることは、心に浮かんだ抽象概念を外部化することへと続いていきます。あの時、あの場所で感じ、言葉にならなかった雰囲気を、見ることがかなわなかった続きを、体験の奥を写真が見せてくれます。撮影することで、全てが一時的に光りに置き換わりフィルムに蓄えられます。私はこれを還元するために、薬品現像・暗室プリントを行います。作業が進むにつれあの場所で私の中に芽生えた抽象概念は新たな形にとなって客体化されていきます。それはまるで、あの時に書いた手紙の返事を読むようです。手元に集まった沢山のフィルムの中からカメラが記録した事実と私の解釈、2つの要素が混じり合っているものを探し、「静寂な部分」を 作品の中に作るための作業へと移っていきます。このことによって「浮遊する雰囲気」のさらなる奥に続く道を作ります。

 

表現手段としての写真は上下左右、全ての方向に果てしない広がりを与えてくれます。私は、自己の体験、知識などの写真には写らない概念を表現することに強い関心を持っています。言葉にならないものを写真から浮かび上がらせることが制作をする意味です。写真は私を画面の外へ、遠くへと運んでくれます。

 

村井 旬